鼻出しマスク

鼻出しマスク――
人はなぜマスクから鼻を出してしまうのか

もはや新型コロナウイルスよりも議論のホットスポットとなっているかもしれない鼻出しマスク

ノースカロライナ大学によるウイルスの侵入経路の研究によると、新型コロナウイルスがもっとも侵入しやすい呼吸器系の部位を調べたところ、鼻の細胞が喉や肺よりも感染しやすい可能性が分かったという。また、スーパーコンピューター「富岳」によるシミュレーションにおいては、鼻が出ていると当然、飛沫を吸入し感染しやすくなるとともに、くしゃみなどをした場合、鼻から出た飛沫が周囲に拡散する恐れがあるため、鼻出しマスクは自他ともにリスクを高めることが分かった。

しかしそのような可能性を知ったとしても、マスクから出た鼻が恐れ慄き、マスクの中に引っ込むということはないだろう。なぜなら凡俗などというものは、研究結果も可能性もへったくれもない「だらしない」ものであると、人類の歴史が物語っているではないか。人類の最大多数派でありつづける凡俗が、機知に富み、きりっとしたことなど、おそらく一度たりともないであろう。数千年、あるいはそれ以上の過去をとおして、聖人君子から「愚か者」とよばれてきたもの、それが凡俗である。

そういうことだから、鼻出しマスクなどというものも、ことさら言挙げするまでもない。マスクにかぎらず、パンツがずり落ちてケツが半分出ている者もごまんといることだろうし、もっとえげつないものがはみ出たまま何食わぬ顔でいる者もごまんといることだろう。そんな「だらしない」俗世間に、いちいちめくじらを立てても詮無いことである。

というわけで、「人はなぜマスクから鼻を出してしまうのか」という疑問にたいする答えのひとつは「人とはえてしてだらしないものだから」ということになるだろう。

鼻出しマスク

裏目に出る 相対主義と多様性の過剰

人はなぜマスクから鼻を出してしまうのかといったところで、マスクから鼻を出すことが法で禁止されているならともかく、現在はその自由があるのだから、これまたどうしようもない。これまでさんざん、相対主義と多様性を礼賛してきた思潮にあって、「マスクから鼻を出すこと」は「スタイル」といわれればそれまでである。テレビや雑誌の特集で「あなたはマスクから鼻を出す派?出さない派?」などと扱われても、せいぜい見解の相違としての炎上、不謹慎論どまりであろう。

これは皮相的相対主義のもたらした騒擾でもあろう。深部においては相対と絶対は不二一元であるように、「公」と「私」というものも太極図のごとく、公共性のなかに私人性があり、私人性のなかに公共性もあるという統合的認識に立てば、「マスクから鼻を出すか否か」という些末な一事においてすら、TPO(Time:時間、Place:場所、Occasion:場合)と公知を鑑みた平衡感覚をもって適宜、態度を決するという、「公私の中庸」に落ち着きそうなものだが、皮相的相対主義はもっぱら個人性、私人性を絶対視した偏頗な思考と決定を促すことから、「公」と「私」が深部において二幅対、二重螺旋のような統合系にあるという意味や価値に達することなく、「空気」「同調圧力」と称される「雰囲気」が「(似非)公」として挿げ替えられ、それは「私」との相反関係となり葛藤となり、そこから、鼻を出したい者は「たとえコロナで死ぬとしても、意地でもマスクから鼻を出してやる」となり、鼻を出すべきではないと考える者は「マスクから鼻を出しているやつはテロリストであり国賊である」というような、平衡感覚の脱落した騒擾がウイルス以上に瀰漫することとなる。

思えば、鼻出しマスクなどという児戯のごとき騒ぎは、小学生の頃に教室の片隅であったようなレベルの話だ。誰かのおかずの椀に、鼻毛が一本落ちている。給食当番でマスクから鼻を出していたのは、〇〇くん、ただひとりだと。彼のあだ名はその日より「鼻出しマスカー」に決定だ。 箍(たが)が外れた俗世などというものは、本質的には小学生から1ミリも進歩しとらんということだろう。むしろ焼きが回った分、稚拙美の欠片もない、ただただ醜悪なものへとなりはてるからこそ、「塵界」「俗界」などと低位に据え置かれる。

統合知の放擲、相対主義の皮を着せたただの放縦が、毎度のごとく浮き彫りになっているだけのことだ。それが感染症災害時においては鼻出しマスクとなって、顔面の一点に表象しているにすぎない。毎度の烏滸の沙汰である。

また、皮相的相対主義は、実在の視線、那辺にありやと始まった科学の経験の体系をすら、仮説の体をとりつつその実、無限・無軸に分裂させ相対化する。科学から普遍のものさしとしての目が消えつつある今、およそ科学的なるものにしか寄辺がない貧しき文明社会に残されるのは、基準の寄辺を失ったデラシネ(根なし草)が互いに嘲弄するアノミー(無規範)のみであり、それは騒擾のていたらくである。

人は出してはいけないもの、
出すなといわれているものを出したがる生き物である

人はなぜマスクから鼻を出してしまうのか。それは人というものが、出してはいけない、出すなといわれているものを出したがる生き物であるということもあるだろう。

たとえば露出行為という犯罪行為は、そもそも「隠さない」という文化、常識であれば、そのような行為にはしる者も少なくなる、というより露出行為が成立しなくなる。「鼻出しマスカー」たちにとって、「出すな!」という強いメッセージは、ダチョウ倶楽部でいうところの「押すなよ!」という強い反メッセージになるのかもしれない。つまり彼らの脳内では「出して!」と変換されているにちがいない。出すなといわれるほど出したくなる。それはインモラルともいわれる衝迫力であり、歪んだ甘美である。ストレスフル社会において、もはやそこにしかガス抜きのための穴がない、そういう追い込まれた者たちは最後、鼻の穴に賭ける。 ゆえにその出し方も、遠慮がちにとか、躊躇しながらということはない。「どうだい!見ておくれよ、このマツタケのような立派な鼻を!美しいだろう!命惜しかろう!」と「モロ出し」にするのだ。感染症においてそれが自他共のリスクであることを知りながら。故意のインモラルである。

もしそうであるならば、鼻出しマスクをいよいよ犯罪行為として認定する必要もでてくるだろう。ちなみに相撲の取組中に、まわしが偶発的に外れて陰部が露わになることを「不浄負け」というが、そういう不名誉を法的にあたえることも必要なのかもしれない。感染症災害中は「鼻」は「陰部」に相当するというような新しい定義ニューノーマルが。そしてマスクから鼻がモロ出しになっている者への注意・警告は、「鼻を出すな!」と言うよりも「見えてる!見えてる!」と、なにかとても恥ずかしいものがはみ出てしまっているかのような、廉恥心に訴えるというのはどうか。

ノースカロライナ大学のウイルスの侵入経路の研究につづいて、どこかの大学が調べてくれないだろうか。鼻出しマスカーの、その心理について。単に息がしづらいとか、そういうのではない、深い心理があるはずだ。リビドー(libido)が。

マスクの設計思想、機能、マナー、
いずれにおいても鼻出しマスクは判定負け

マスクメーカーにしても、設計段階で熟慮の末、マスクのフォルムを決めているはずだ。そしてそれは「鼻まで入れる」デザインになっているはずなのだ。なにせウイルスの主たる侵入経路なのだから。その事由から鼻出しマスクをマナー違反とするというのは、筋は通っている。

たとえば、ブラジャーをアイマスクとして使用するのは個人の自由ではあるが、それはやはり個人的趣味の範囲にかぎられる話で、公の場では無理があるというものだろう。鼻出しマスカーは、そういう明示的ではないが社会で機能している分水嶺を意識したうえで、鼻を出すか、出さないか、出すならどれぐらい出すか、七分出しか、五分出しか、モロ出しか、大人の判断をすべきではないだろうか。

ちなみに私が鼻を出さずきっちりマスクをする理由は、人とは少々異なるがシンプルだ。感染対策はだいじだ。それに鼻が出たさまは不細工でもある。しかしそれらはじつは二の次。最たる理由は「ステルス性」。鼻のような、複雑な形状の突起物をモロ出しにしていたのでは、やすやすとレーダーにかかってしまう。きっちりとマスクをし、ステルス性を高めたい。半隠者の道を行く者、ステルス性は必須のアビリティーである。

こういう者は、希少なマスカー「ステルス・マスカー」である。

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